3 灰《かい》1
運命という言葉が嫌いだ。
僕の人生は、名前が示すとおり灰色だった。
「灰《かい》様、御車の御用意が出来ました」
寮の自室へ訪ねて来た男は、ベッドの中で丸まっていた僕にそう言った。
セキュリティーの強固なプライベートエリアに難なく侵入して来たのだ、誰の手配なのかは察して余りある。
もそりと身動ぎして、だが、身体は震え出す。支える腕が崩れて、ぽすんと僕はマットレスに沈む。この分では足腰も立たないのだろう。
どうしようかと悩む間もなく「失礼致します」という声と共に、ふわりと重力から切り離された。ブランケット越しに感じる男の腕は、少し強引で、けれども労わりに満ちていた。
「このまま病院へ向かいます」
事務的な言葉に僕は「はい」と返事をするだけで精一杯だった。
地球の重力が重過ぎる。
胸が痛い。
涙を堪えた眼が痛い。
縦抱きにされたまま寮を出て、恐らくは裏口へ向かったのだろう。車に乗せられた。
着いた先はやっぱり、主治医のいる病院だった。
幾つかの検査をされたが、誰も僕に何が起きたのか訊いてはこなかった。それが、事の深刻さを言外に匂わせ気持ちが沈んでいくのを止められない。
ソファのある個室に案内され、俯き黙っているとやがて主治医が現れた。
「嫌な話をしますね」
開口一番の言葉に、僕は可笑しなことに安堵した。そうだ、これは嫌なこと。
顔を上げると、彼は準備が整ったとばかりに肯く。
「まず、両手首を捻挫しています。今は痛みを感じておられないようですが、時間が経つにつれ鈍痛が出て来ることでしょう。鎮痛剤を処方致しましたのでお飲みください」
そう言って、白い錠剤とミネラルウォーターをローテーブルの上に置いた。
赤黒い痣が検査着の袖から覗き、我ながらゾッとする。隠そうとしても化繊の布地は伸びず、僕は腕を引いて縮こまった。まるで亀のように。
そんな僕を笑うことなく、「それと」と主治医が続ける。
「局所に裂傷がみられますので、灰様にはこのまま数日入院していただきます。治療は――」
ああ、やっぱり。
僕はぎゅっと目を瞑る。
そんな事をしたところで現実は悪夢に成り代わらないし消えてもくれない。僕を救い出してくれたのがαであっても、僕を痛めつけ犯したのもまたαである事実は変わらない。
悪夢のようであっても、悪夢のほうがマシな現実なんて腐るほどあるものだ。
少なくとも灰の世界には。
『不撓不屈《ふとうふくつ》』
錫《すず》が最期まで大事に抱えていた校訓は、弱者に前を向かせるためのものだ。と同時に、鞭打つものでもあると灰は思う。
どんな困難に出会っても怯まず心挫けず、だなんて、初めから持たざる者には悪夢でしかない。
錫《すず》は、灰の生みの親である男は、ごく普通の家庭に生まれたΩだったが、努力に努力を重ね学園の特待生となり、そこそこ名の通った企業に就職した。
順風満帆かと思われた人生だった。運命が彼の前に顔を出すまでは――。
入院から一ヶ月。僕への治療はカウンセリングが中心となっていた。
主治医の説明を訊いている途中で意識を失い、過眠症状が暫く続いたらしい。僕は夢現であまり覚えていない。気がついたらカレンダーが変わっていて驚いたくらいだ。
たまに、あのひとが訪ねて来ていたように思う。
潤《うる》が彼らを唆《そそのか》したのかと尋かれ、違うと答えた気がする。
潤とは、ボタンを掛け違えただけだ。僕が拒絶したから、癇癪を起こしてしまっただけ。
でも、そうしなければ潤が継母《はは》に叩かれるから。だから、にいさまと呼ばないでと言った。天使のように可愛い潤が実の母親に叩かれるなんて耐えられなかった。
「潤は、『様子を見て来て』と彼らに言ったようです」
「弟を庇っているのではないのだな」
我が子を疑う父に、僕は眉を顰めた。その顔を、彼は懐かしむように目を眇めて見ていた記憶がある。
父は僕に錫《すず》の面影を見ていたんだと思う。
僕を襲った奴らは退学処分になったらしい。理由は秘匿されたが、学園を『退学』させられたという履歴は社会的制裁に足る重さがあるのだとか。放校処分でも良かったが、と呟いた父の声は暗く重かった。だが、転校ではなくαの更生施設に入所させられたのだから、現状は放校に近いのだろう。
これで安心して復学出来ると父は言ったが、何に安心していいのか僕には分からなかった。
事件に遭遇し見事に対処したらしいαの櫟井《いちい》くんに、学園内での庇護を頼むかと訊かれた。
対処? そうなのかな。よく覚えていないけど。双子の目に穢いものを入れたくなかっただけじゃないのかな。
僕は首を横に振った。
櫟井くんが彼の幼馴染みである双子にしか興味がないことは周知の事実で、父が強権を発動したところでそれは揺るがないだろう。彼らの間に波風を立てたくはないし、人気者に関わってヘイトも集めたくない。
それに、僕もそんなことは望まない。惨めな気持ちに苛まれるだけだ。寧ろ、彼が僕には何の感情も抱かないだろうことに感謝すらした。助けてくれたのが彼で良かったと心から思う。
教室もなんだか怖いし、継母のいる家に戻るのも嫌だ。そんな、子供みたいなことを考えていた僕の脳裏に、錫の顔が浮かんだ。
『不撓不屈』
運命から逃げ、次第に狂っていった錫。
僕と錫はよく似ていた。
潤は誕生日が同じだけの僕を双子だと言ったが、僕が双子のように似ているのはきっと錫だ。
錫は余りにも愚かだったけれど、僕に人生を教えてくれた。
加害者への処罰を考慮してやった見返りに図書室を全面改築していると聞いた僕は、父に初めて「お願い」をした。保健室登校ならぬ、図書室登校は出来ないだろうかと。
父は難色を示したが、リハビリの場としてこれ以上に相応しい場所はないと説得した。
二ヶ月後、僕は図書室で休学中の遅れを取り戻すべく自主学習に励んでいた。分からないところは司書さんに教えて貰う。
「休憩しませんか?」
机に向かって課題を解いていた僕に、司書の柳さんが声を掛けた。彼は名前の通り嫋やかな雰囲気のあるβの男性だ。
その言葉に時間を確認し、僕はペンを置く。
「――はい。ありがとう、ございます」
頭で考えたほど順応は出来ていなかったけれど、司書のひとたちには次第に慣れてきた。それはきっと、心のどこかで彼らが父の支配下にあると知っているからだ。
父の言う図書室の全面改築は、なんというか、規模が違った。
フロアに並ぶ書架の背が低くなり、収容量を補うために図書室自体が広くなった。そして、何を考えてか喫茶スペースが出来ていたのだ。悪ふざけが過ぎると思ったが、理事会で議案が通過したんだから好きに使えばいいと言われてしまった。
それが、貸しを返させることだというのだから僕にはもう何も言えない。放課後は他の生徒たちも大いに活用しているそうだから、いいのかな。
小三の時に錫《すず》が亡くなって、児童養護施設に引き取られていた僕を父が捜し出すまで。錫はこの父から身を隠していたのだなと、経済力と価値観の違いを感慨深く思ったりする。
どんなに財力を投じても見つけられなかった錫は、父の中できっと永遠になったのだろう。
現実は割とクソだったけど。でも、悪くはなかった。僕は錫が、運命から必死で逃れようとした愚かなひとが大好きだった。
幸せな時間だって沢山あったのだから。
「灰様、今日こそはパフェを試してみせんか?」
カフェカウンターの中から愉快げに声を掛けるのは湊さんだ。
このひとも司書なんだけど、よくカウンターに籠もってドリンクの準備をしている。月替りのパフェやドリンクが人気なんだって。ブックカフェかな?
「ミルクティー、を、お願い……します」
「パフェは?」
「む、むり……」
「うーん。では、ほうじ茶ラテなんてどうですか? たまには違う味も体験してみては如何でしょう」
笑顔の圧が……。湊さんは少し押しが強い。そして華やかな風貌のβだ。
柳さんは真っ直ぐな艶めく黒髪で、湊さんはウェーブの掛かったアッシュグレージュ。和洋コンビって感じがする。
「じゃあ、それ……で」
「ホットですね?」
「ん。はい」
僕は夏でもホットティーを飲む。
ほうじ茶ラテという飲み物の支度で注意の逸れた湊さんに隠れ、僕はそっと嘆息する。
ここにいると、父の過保護に託《かこつ》けた執着をひしひしと感じた。運命の番の遺児であり、存在を知らされていなかった我が子という立場は中々に重い。
父に従属している間は安寧だと思うけれど、逃げる気配でも発したら監禁でもされかねないと疑う自分がいる。まさかそこまで、と思いたいけど。αの執着を甘く見ちゃダメだと錫には繰り返し忠告されていた。
「はい、ほうじ茶ラテですよ」
「……いただきます。」
アンティークのティーカップに注がれた飲み物は、確かにほうじ茶とミルクの味がした。
「意外、と、おいしい?」
不思議な感じ。
にっこりと笑った湊さんは、カウンターの止まり木に腰を下ろした柳さんにも同じものをサーブした様子だった。そのままカウンター越しに談笑している。
このふたりから、父に僕の日々は筒抜けなんだろう。どこか諦めにも似た安息。それは、僕が学園にいる間ずっと続いた。
それは僕が運命に出逢うまで、一年と半年くらい前のものがたり。
初出
2020/2/24 23:36 on Twitter
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