4 灰《かい》2


 運命なんて信じてなかった。
 
「湊さん。ミルクティー淹れて?」
 早朝の閑散とした図書室は少し肌寒い。
 柳さんが渡してくれたブランケットに包《くる》まりながら、僕は止まり木に腰を下ろした。
 柳さんは、いつも朝食を寮の個室まで届けてくれる。そして僕が食事をしている間にベッドルームが整えられバスルームから洗濯物が回収されている。ランドリーバッグを持たせてもらったことなんて数えるほどしかなくて、エレベーターを待つ間に洗濯物は忽然と消えてしまう。
 甲斐甲斐しく世話を焼く彼は、対外的には今も司書のはずだけど、僕に対してやっていることは殆ど男性版ナニー《マニー》に近い。赤ちゃんかな? って感じだけど、たぶん間違ってない。大した違いじゃない。父にとっては。
 僕は結局、中等部を図書室に入り浸って修了した。
 授業中は図書室にいて、ブランチに喫茶カウンターで湊さんの用意してくれる軽食を摂り、三時頃にはおやつをいただく。放課後は授業が終わる前に寮へと戻り、夕食も部屋に運んでもらって。食堂を利用したのは二年前が最後かな。一人前を食べ切れず、料理を作ってくれる食堂の方に心配されるのも心苦しくて、どんどん食が細くなっていく僕に湊さんが今のサイクルを提案してくれた。
 ひとが多くなる時間帯を避けての行動を寂しいと思ったことはない。いつもふたりがいてくれるから。それより、よく進学出来たなと思う。成績だけは上位をキープしているけど、この学園、自由過ぎやしないか?
「茶葉は何がいいですか? 今日は桜ミルクティーがお勧めですよ」
「ん……。じゃあそれにして?」
 湊さんは僕に色んな味を試させようとする。量が食べられない分、味覚を豊かにさせたいみたいだ。いつも決まったものばかり食べていた僕も、今では食べられるものが増えたと思う。
 それは湊さん限定でなのかもしれないけれど、「慣れることは大事です」と柳さんも肯定的だ。
 どこまで特別扱いするつもりなのかと、呆れたらいいのか感心したらいいのかわからない。
 僕は自分が特別な存在だなんて思ったことはない。
 けれど、今僕が置かれている環境は周囲から斗出していて、レールから一度《ひとたび》外れてしまえば戻り方なんて分からなかった。
 そもそも僕に正道があるのかすら定かではないのだから。
 財閥の父に引き取られるまで、僕ら――僕と生みの親である錫《すず》は、国内に点在するΩの保護シェルターを起点に、根無し草のような生活をしていた。
 あの頃の僕には戸籍がなかった。
 すべては、錫が運命の番《つがい》であるαから逃れるための苦肉の策だった。
 錫と父は十代の多感な時期にこの学園へ通っていたが、学年が四つ違いということもあって、ふたりの生活が学園内で交叉することもなかったという。
 名家のαである父は学園のスクールカースト上位にあって、その周囲には取り巻きや親衛隊が犇《ひし》めき合う花形。片や錫は、発情期を迎えるまではβで通るほど、特に目立つこともない生徒だったらしい。
 一般的に、αの番《つがい》に対する執着は底知れぬ情念を孕むという。だが父は、自分に運命が現れるとは露ほども考えなかったそうだ。それは飢餓感の欠如と、他人に対する情の希薄さに所以《ゆえん》するらしい。
 父は番《つがい》探しに消極的だった。そして父を取り巻くコミュニティは父を囲い込むように閉じていき、出逢いのチャンスは乏しかった。
 錫《すず》はごく普通の家庭に生まれたΩだった。周囲にはβしかいないような環境で、自身も発情期の気配を感じず生きてきた。中学、高校、大学と附属を特待生としてエスカレーター式に進学し、就職した。
 そこそこ名の通った企業に職を得られたのは、やはり学歴がモノを言ったのだろう。名家でなくても、特待生として在籍した十年間は錫に報いた。はずだった。
 
「式には御出席なさいませんか?」
 コトリと、目の前に湯気の立つカップが置かれる。桜餅の香りがするミルクティーに、僕は興味津々だ。
「――今更かな、って」
「高等部から編入してくる生徒も数名ですがいらっしゃいますよ」
 湊さんの言葉に、柳さんが重ねてくる。
 確かに、新顔《ニューフェイス》に紛れてしまえば目立たなくていいという考えもあるかな。でもそんな仮面はすぐに剥がれ落ちるだろう。『可哀想な子』というレッテルは、この学園にいる限り僕についてまわるのだから。
 実行犯はいなくなっても、学園で起きた不祥事を完全に秘匿することは難しい。学園内で名家の力を誇示する愚か者は少ないが、人知れず情報を握っている者は多い。
 下手な波風を立てることは先々を考えると得策ではない。それならばいっそ、『変わり者』で居続けたほうがマシだ。
「今のままがいいな……」
 我ながら狡い言い方だ。
 入学式の日に、灰色の三年間を示唆するだなんて。
「……そうですか」
 柳さんは、仕方がないとでもいうように微かに笑う。
「――うん。ふたりにも迷惑を掛けてごめんなさい。あ、やっぱり桜餅の味なんだね」
 素知らぬふりでミルクティーを口に含み、僕は湊さんに笑みかける。
「アッサムのミルクティーに、桜の葉の塩漬けで香味づけしているんですよ」
 知り合った頃から今日まで、慇懃な態度が変わらないふたりだけれど、親しさは増した。好悪の感情ではなく彼らに思い入れられていると思う。
 ふたりはβでありながら、バース性が与える影響を侮るところがない。柳さんはバース性に振り回されることをあまり良く思ってはいないようだ。それは、彼の兄が高等部を卒業直後に自死していることと無関係ではないのだろう。今の生活を崩すことを懸念するのは、僕だけではないということだ。
 父から得た内情は、柳さんの哀しい過去だけ。湊さんは柳さんの負担を減らし補うための人員配置だった。
 僕は錫以外の親族を知らない。だから僕の遺伝因子は錫を参考にするしかないのだけれど、僕は優しかった錫と、緩やかに罅割れるように壊れていった錫しか知らない。
 僕らは僕の発情期を恐れている。
 そして僕は、彼らの不安に甘えている。
「ミルクティーに塩気があるって、変な感じだけど。これも結構好きな味」
「春らしくて良いでしょう?」
「ん。でも桜餅が食べたくなってきた」
 僕が笑うと、湊さんがニヤリと笑み返した。
「こちらの桜ミルクティーと桜餅を、本日限定で御提供致します。灰《かい》様には後ほど、お薄と一緒に召し上がっていただくつもりでした」
「じゃあ後で。楽しみにしてるね」
 そろそろ式典が始まる時間だろう。
「灰様、こちらが御依頼のリストです」
 そう言って、柳さんが綴じた調査書を渡してくれた。
 本年度の教職員一覧、幼稚舎から高等部までのクラス分けと新入編入者の一覧。誰もが入手可能なリストだけれど、備考欄は独自調査された情報が書き込まれている。
「ありがとう。ファイルは更新してくれた?」
「昨夜のうちに対応済みです」
「ん」
 ハッキング対策に、差し障りのないデータを別にフェイクで用意してある。僕が把握しておくべき情報は父の配下である鼠たちに書類化してもらい、日用品に紛れさせてついでに届けてもらう。自分が情報の漏洩元になりたくはないからね。
 念のためスマートフォンでファイルアプリにアクセスし、教員と高等部一年に既読ログを残す。
 高等部への編入生は十人に満たない人数だった。そのひとりは、長年海外に暮らしていた帰国子女だ。親が学園OBなのだろうと紙を捲れば、両親共に卒業生だった。
 αとΩの間に生まれたα。名前は――
「青磁」
「――なにか?」
「ん? なんでもないよ。今日はゆっくりと本でも読もうかな」
「本日は午前中にホームルームも散会される予定ですね。十一時半から図書室を開放いたします」
「ん。十時に軽食を用意してくれる?」
「畏まりました」
 カウンター越しに湊さんとそんな遣り取りを交わし、僕は書架へと足を向けた。
 窓の外には咲き初めの山桜が存在感を示し、春の訪れを教える。
 樹の根元には白い塊。近頃たまに見かけるようになった猫が微睡んでいた。
 
 僕はこの穏やかな時間を忘れない。

初出
2020/03/10 17:14 on Twitter

螺旋の梯子

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