6 灰《かい》4
どれほど時間が経ったのか。
「そろそろ、ひとが動き出しますので」と柳さんが服を直してくれた。
桜の木の下で、柳さんと無言で向かい合う。
余計なことを言わない彼は、今なにを思っているのだろうか。父の鼠《スプーク》として仕え、嫌な顔ひとつせず僕を支えてくれている。
全てを知った上で優しく接してくれる。
柳さんはΩを憎んでいるのだと思っていた。
見上げた顔が今にも泣き出しそうで、僕は謝罪の言葉を飲み込んだ。そんなことをしても余計に傷つけるだけなのだろう。
男の子は、湊さんが腕を引き図書室内へと連れて行った。苦悩の深さを物語るように、βの湊さんにされるがまま茫然と従っている。
彼とはこれきりかもしれないと思う。
他人の匂いを身に纏った『運命』なんて、知りたくもなかっただろう。もう関わることもないと考えるほうが自然だ。
嬲り犯され、戯れに咬まれた。子供らしい残酷さで玩具にされた。
僕に発情期が来ていなかったのは幸いだった。複数人に幾度咬まれても、番《つがい》契約が結ばれることはなかったのだから。
けれど何故だか咬み痕は残り、僕の香り《フェロモン》にまとわりつくようにして奴らの匂いも残った。まるで場末の男娼のように、凌辱の残滓をまといつかせて生きている。
それが僕だった。
他人と極力関わろうとしないのも、一人きりの義弟《おとうと》である潤《うる》を避けているのも、図書室登校が例外的に認められ進学出来たのも、全てはこのせいだ。
僕の人生に希望なんて一欠片もなかったけれど、今は絶望の果てにいる。この学園にいられる間は、父が整えてくれた鳥籠で徒《いたず》らに時が過ぎるのを待つ。それだけで良かった。
卒業後は進学せず、父の仕事を陰で支えられたらいいと思っている。元より家を継ぐ気はない。――その資格もない。
前庭に通じる煉瓦製のデッキを踏みしめ、柳さんが開けてくれた扉から図書室へ戻ると、甘やかなホットココアの香りがした。
湊さんが彼のために淹れたものだろう。
壁際に設えられた木製ベンチに、凭れるように座っている彼から目を逸らし、寮へと足を向ける。
柳さんが僕を追いかけ、肩にブランケットをかけてくれた。寒さのためか、身を隠すためか。その両方か。
彼が立ち上がりかけ、力なく腰を下ろす。
なにか言いたげだが、言葉がない、といった風情だ。
僕もそうだ。なにを言ったらいいのか分からない。なにも言わないほうがいいのかもしれない。決定的な言葉など、今はまだ。
僕は自室へ戻り、少し休むつもりがそのまま寝込んでしまった。
運命の番《つがい》に出逢った日。
僕に、遅れていた発情期が訪れた。
「灰様、御加減はいかがですか」
久し振りに会った主治医は、相変わらず飄々としていた。
「な、ケホッ……」
話そうとして声が枯れていることに気づく。柳さんがミネラルウォーターを渡してくれた。
いつの間に病室へ運ばれたのだろう。
「んッ……。発情期、だった?」
「ええ、殆ど高熱で苦しまれるだけでしたが。ああ、精通もされましたね。おめでとうございます」
「へっ?」
「おめでとうございます。灰様」
なんで、先生がそんなこと知ってるの。柳さんまでやめて欲しい……。
思わず睨め付けると穏やかな眼差しを向けられていた。
マイペースな主治医は、そんな僕たちに頓着せず話を進める。
「――さて。倦怠感の他に、どこか気になる点がございましたら教えてください」
倦怠感。
確かに身体は重怠い。高熱と発情期が重なったのなら、そうだろうと思う。けれど。
「頭に、ずっと掛かっていた、靄のようなものが……いくらか軽くなっている気がします」
以前、抑うつ症状だと言われ投薬も受けたが、薬を飲んでも消えなかったもの。それが少しだけ軽減したようだ。
「――なるほど。御当主の依頼で、発情期間中のホルモン値を検査《トレース》していたのですが、ホルモンだけでなく、不活性化していたフェロモンにも変化がありました。症状が改善されたとしたらそれらの影響でしょうか」
「不活性化……」
「ええ。年齢に見合わない成長の遅れも、幼少期の生育環境に由来しているものと推察してきましたが、そうではなく、複数人のαから同時に愛咬《あいこう》されたことによるアンチプライマー現象かもしれません」
「アンチ、プライマー?」
突然、知らない言葉が出てきて僕は戸惑う。
「プライマーとは始動因です。一般的に知られている性フェロモンはリリーサーと呼ばれています。触発因、他個体に特異的な行動を触発させるフェロモンですね。プライマーは、受容した個体の内分泌系に影響を与えるフェロモンです。ざっくりした考え方として、リリーサーが香りによる触発や誘惑を、プライマーが愛咬による始動、発達、契約を担います。αの愛咬によりΩと番うことは広く知られていますが、番に成熟を促し受胎可能な肉体へと発達を促すことは、灰様のような若い方にはあまり知らされていないのですよね。由々しきことです」
生々しい言葉に、キュッと喉の奥が締まり息苦しくなる。
性教育から逃げている僕には耳の痛い話だった。
苦痛を和らげようと、ひとくち水を含み、息を吐く。
「リリーサーと、プライマー。触発と、始動? Ωと、α……」
寝起きで畳み掛けるように言われても、内容が難しくて思考停止してしまう。
要点だけを拾うよう努力したけれど、柳さんを見たら微笑んでいたので、彼は理解しているのかもしれない。
すぐには理解出来そうにないので、後で柳さんに確認しよう。
「はい。αの愛咬。灰様の場合は複数のαによる愛咬、プライマーフェロモンの過剰アタックにより、フェロモン孔が固く閉じ阻害されたと考えられます」
「それが、アンチプライマー、現象?」
やや興奮気味の主治医が噎せて咳き込み、柳さんから水を受け取ってゴクゴクと飲み干す。
他人が興奮していると自分は冷めて引いてしまう、という現象なら今実感している。僕はまだ眠くてボーッとしている。
「これから論文をまとめたいと思いますが、概ね間違ってはいないかと。研究というより問題提起ですので、この考えが世に出たら類似事例が集まるのではないかと思いますよ。恐らくは、秘匿され揉み消されている事件は多い。許し難いことです。踏み躙られてもよい存在などない。――私はΩの尊厳を守りたい」
その言葉に、僕はベッドから主治医を見上げた。
飄々としたひとだと思っていた。
最悪の出会いから、あまり意識しないようにしてきた。
こんなにも白髪が多かっただろうか。確か四十を幾つか越えたくらいだったと思う。しかし頬は痩《こ》け、白衣に包まれた長身痩躯は、以前見たときより窶れてはいないか。
「俗語で、気に入った相手や物に『唾をつける』と言うでしょう? 忌々しいことですが、αの牽制により枷がかけられ、灰様のフェロモンは封じられた状態なのではと推察しております」
主治医は眼鏡を外し、指で眉間をグリグリと揉む。目尻に皺があり、本当はよく笑うひとなのかもしれないと思った。
「今回の発情期は、正しくフェロモンが働いた結果だと考えられます。もしくは……いえ、灰様の、これまでの症状は報告事例がなく、医学的に説明のつかない現象でしたが、フェロモンに誘発されホルモンも活性化されていくのではないかと、我々も期待しています。栄養をしっかり摂れるようにしたいですね」
「はい……」
そうか。
ホルモンの活性化は、成長の余地があると言い換えられるのかもしれない。
僕のこの体が少しは大人に近づけるのだとしたら――。
喜ぶべきなのだろうと思う。だが、薄ら寒い恐怖に僕は目を瞑りたくなる。
今はまだ深く考えたくない。
「――灰様。プライマーフェロモンは階級分化フェロモンとも呼ばれますが、別にね、αがΩに対して優位というわけでは、必ずしもないと私は考えます」
「はぁ……」
「Ωのリリーサーフェロモンにαは逆らえない。もし強力な誘引フェロモンを合成し悪用すれば、αは害虫の如く滅びるでしょう」
「――え?」
滅びるって、なにが?
このひとは何を言っているのか。
思わず見上げると、主治医はにこやかに笑っていた。
「さて。良い話をしましょうか」
今の暴言はなかったかのように、主治医は言葉を続けた。
僕はあの日を思い出す。
「まだ完全ではありませんが、疵痕の幾つかに治癒の促進が見られます。――これも止まっていた灰様の時間が動きだした証左と言えるでしょうか。これまでと同様、慎重に経過観察をさせていただきたいと思います」
時が動く。
それは喜ばしいことなのか。僕にはまだ分からなかった。
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